茶山台新聞

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どんな子とも向き合う。「べっきピアノ教室」の戸次かおりさんが30年続ける、茶山台への恩返し。

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文=中村彩理(フリーライター)

家庭や職場・学校以外の心地よく過ごせる場所をサードプレイス(第3の居場所)と呼びます。地域のコミュニティや趣味のサークル、カフェやお店など様々な場所がその機能を果たしています。

茶山台で30年以上続く「べっきピアノ教室」もその1つ。運営する戸次かおりさんは長年ピアノの指導をしながら、子どもたちの成長を見守ってきました。

ピアノ教室だけでなく、地域の子どもたちを対象にワンコインで参加できる合唱教室「合唱しようVIVOくらぶ」も主催。小中学生が楽しく童謡・唱歌を歌いながら交流できる場を提供しています。

これまで指導してきた生徒は100人を超え、教え子の中にはオペラ歌手になった人も。親子2代で戸次さんの指導を受けているという方もいるそうです。

ご自身も小学生の頃から茶山台で暮らし、多くの子どもたちと関わり続ける中で、戸次さんは、茶山台の町や子どもたちをどのように見てきたのでしょうか。お話を伺いました。

 

穏やかな雰囲気だった、開校当初の小学校

1973年、戸次さん一家は、それまで暮らしていた堺市津久野の団地から茶山台に引っ越してきました。当時戸次さんは小学2年生。まだニュータウンも開発途中で、その一帯は泉ヶ丘駅しかなかったといいます。

多くの人が一斉に転入してきたため、茶山台小学校は全校児童が1000人を超えるマンモス校に。戸次さんの小学校時代の恩師の先生は、隣の若松台小学校に設置された「開校準備室」の時から茶山台小学校の開校準備にも携わった方で、戸次さんもよく当時の話を聞いたそうです。

大半が転校生なので、新しい子が来ても、その日から仲良く一緒に遊ぶような大らかな雰囲気でしたね。同窓会で再会した時に恩師が、「茶山台小学校は泉北の学習院だった」と振り返っていたほどです。ピアノ教室の子どもたちと接していても、茶山台小学校の穏やかで純粋な雰囲気は今も残っているなと感じます。

若松台中学校に入学後は、できたばかりの吹奏楽部に所属し、トランペットを担当しました。創部当初はまだ練習環境も整っておらず、練習場所を探すのにも一苦労だったそうです。

音楽室は既に合唱部が活動に使っていたので、早朝や、放課後の合唱部の練習の終わったあとに使わせてもらったりして、朝から晩まで練習していました。あまりに遅くまで練習するから、いつも校長先生に怒鳴られて追い出されるように帰宅していました(笑)。すごく楽しかった思い出です。

 

どんな子とも向き合う!  べっきピアノ教室

5歳からピアノを始めた戸次さんは音楽大学に進学。卒業後は音楽に携わりたいとの思いを持ちつつも、一時は会社員として事務の仕事に就いていました。しかし、幼い頃から師事していたピアノの恩師からの依頼で、25歳の時に恩師が指導していた生徒を引き継ぐことになります。

当初は生徒も少なかったため、週の半分はアルバイトをしながらの生活でしたが、5年後には自宅にて「べっきピアノ教室」をスタート。どんな生徒でも大らかに受け入れる戸次さんならではの関わりや指導が評判を呼んで次第に生徒も増え、教室は現在難波と茶山台の2拠点となるまで成長しました。

教室での指導にとどまらず、学校行事を参観するなど生徒を丸ごと見守る戸次さん。卒業した生徒が成人式などの節目の時に挨拶に来ることもあるそうです。

誰かしら生徒も出演しているので、学校の生活発表会や運動会は、ほぼ毎年見に行っています。伴奏を担当する生徒から「聴きに来て」と声をかけてくれることもありましたし、ご両親が来られないからビデオを撮ってほしいと頼まれたこともあります(笑)。

先日も運動会を参観してきたのですが、みんな一生懸命で純粋でしたよ。

成人式の会場は教室からも近いので、私からも「振袖着るなら見せに来てね」と声をかけたり、発表会の開催をお知らせをしたりすると、当日聴きに来てくれる子もいます。高校生や大学生の子たちは、荷物運びや飾りつけなどの準備を手伝ってくれています。

茶山台小学校は昔から特別支援教育にも力を入れていたことから、支援の必要なお子さんが転入してくることも多かったそうです。そうした親御さんからピアノを習わせたいとご相談を受けた際も、戸次さんは決して断ることなく引き受けてきたといいます。

目の見えないお子さんは、私の弾く音をずっと聞き、音を探すときも手探りなので、弾きたい音に到達するよう指で教えてあげることで次第に理解されていました。

難聴のお子さんは、音程を正しくとるために、「それは高すぎるよ」「もう少し低く」と、正しい音が出るまで教えていくと、次第に音もとれるようになっていきました。肢体不自由で末端に力の入らない子も、指を動かす練習をすることで音が鳴るようになって、音階も弾けるようになりました。

それぞれの特性に合わせて指導するにはどうすればいいのかと試行錯誤の日々でしたが、本人もすごく楽しそうにされていたのが印象的でしたし、皆ピアノが大好きで、一生懸命取り組まれるので、めきめき上達していきましたよ。

 

「できた」を実感することと、失敗経験を大切にすること

戸次さんは、30年以上教室を続け、子どもたちの成長を見守り続ける中、子どもたちの変化をつぶさに感じながらも、時代に応じて指導法を工夫しながら関わってきました。

最近の子たちは、以前に比べて根気や集中力を維持することが難しくなってきているなと感じています。

発表会の曲を決める際も、より簡単な曲を選ぶ子が増えました。さらにここ10年ぐらいは、何かやろうと声をかけても、「めんどくさい」とか「無理」とかネガティブな言葉を発する子も増えて。そこを乗り越えないと上達はしないのですが、練習が必要となる課題は見ただけで億劫になってしまうようです。

小さな頃から動画などのコンテンツも溢れていて、自分から能動的に動くということには慣れていないといったことがあるのかも知れません。

そうした子どもたちに対して戸次さんは、なるべくスモールステップで「できた」を実感できるよう寄り添い、声をかけるようにしているのだそう。 

私がピアノを習っていた頃と違って、今は「やってきなさい」と言ってやってくる時代ではありません。新しい曲に入るときは、まず音符を読む練習をして、一通り読めるようになってから弾く練習して、という具合に、少しずつ難しいことにも挑戦できるように伝えています。

折あるごとに辞めたいと言いながら習い続けた「辞める辞める詐欺」のお子さんもいました(笑)。その子が「発表会が終わったら辞める」「この練習が終わったら辞める」などと言うたびに、「じゃあ次の発表会まで頑張ろう!」と受け止めながら、なんとか一緒に発表会まで頑張ると、やっぱり少し達成感が得られるのか、もう少し続けようと思うようです。また次の発表会では「終わったら辞める」って言うんですけど(笑)。

成功体験を積み上げることを意識して関わってきた戸次さんですが、それと同じくらい、「失敗する経験も大切」と言葉を続けます。

発表会が迫っても全く練習しない生徒さんもたまにいらっしゃるのですが、一度本人に任せてみるんです。すると本番直前に焦り出して自分から練習をしたり、本番で間違えてしまったことをきっかけに次の年からちゃんと練習するようになったりと、自分なりに気付いて成長していくこともあります。

みんながピアノを一生続けるわけではありませんが、ピアノを続けることで学ぶことや得るものもたくさんあります。発表会一つをとっても、たった一人で舞台に立って演奏するって、かなりの勇気と度胸がいることなんです。

教え子の中にはピアノの発表会での経験があるから、部活の試合では全然緊張しなかったという子もいました。一つの舞台に向き合い、緊張を乗り越えることで、違う世界も見えるので、子どもたちにはできるだけ、そうした経験をしてほしい。

また、ピアノがきっかけで違う楽器や、別の何かに興味を持つかも知れません。実際私の教えた子でも、ピアノは苦手で途中で辞めたけど、合唱は楽しくて、中学生になっても習いに来る子もいます。ピアノを通して何かを学んだり、別の好きなものを見つけられたり、そうした人格形成の一助になれたらと思っています。

 

音楽を通じてできた子どもたちの居場所

ピアノ教室を通して地域の子どもたちの人格形成に携わるかたわら、戸次さんは1998年に地域の小中学生を対象にした合唱教室、「合唱しようVIVOくらぶ」を立ち上げます。27年間続くこの活動では、月に一度、地域会館を会場に楽しく合唱の練習を行っています。誰でも参加しやすいようにとの思いから、驚くべきことに、参加費はわずか500円。ピアノ教室のみならず、赤字覚悟で地域貢献活動に携わってきたのはなぜなのでしょうか。 

童謡・唱歌を大切にする心を育てたかったんです。童謡・唱歌は歌詞もメロディもきれいで、大切にしたい文化が謡われているのですが、最近は音楽の教科書に掲載されなくなり、歌う機会も減ってしまいました。また、最近の子どもたちは、外で遊ぶことも減って、大きな声を出すことがありません。広いところで大きな声を出せる場を作りたいと思い、始めました。

茶山台小学校は1学年に1クラスしかなく、6年間メンバーも変わらないので、世間が狭くなってしまうんです。コミュニケーション力がどうしても育たず、「あの子に言っても仕方ない」と、関わることを諦めてしまう場面も見てきました。「合唱しようVIVOくらぶ」は少人数の活動ながらも、地域の子だけではなく、他の小学校の子や違う学年の子とも関わる場になっていますし、合唱は、周りの声をよく聴かないとできませんので、協調性を育む場にもなっていると感じています。

戸次さんのお話からは、時代の変化に合わせて地域の子どもたちに安心できる場所を提供し続ける中で、子どもたちが親や先生以外の頼れる大人として戸次さんに信頼を寄せている様子がうかがえます。

鍵を落としたから家に入れないと言って急に来た子も、これまでに何人かいました(笑)。駆け込み寺のように思ってくれているようで嬉しいことでした。ピアノ教室でも「合唱しようVIVOくらぶ」でも、生徒たちは親にも学校にも言えないことを話してくれるんです。

かつて不登校気味だった生徒が、「学校に行きたくない」と話してくれたことがありました。私は「別にいいんじゃない?」と言ったのですが、その子は、「大人は学校に行けと言うと思った」とすごく驚いていたのが印象的でした。何より私は、生徒たちみんなが本当に可愛いなと感じます。

 

 

茶山台への恩返し

戸次さんは、子どもたちの居場所だけでなく、学友と地域の高齢者施設にピアノ演奏のボランティアに訪れるなど、精力的に活動しています。ご自身もお母様の介護をされながらの多忙な中で、地域に貢献したいとの思いを持ちながら精力的に活動を続けられる原動力は何なのでしょうか。

この地域は昔からの顔見知りも多く、みんな互いに気配りをし合っています。母が倒れた時も、道で会うたびに「お母さん大丈夫?」などとお声がけをいただくなど、とてもよくしていただきました。

地域の老人会も、週に1度は催しを行うなど精力的に活動されています。母が体調を崩したり、同行する私の都合が合わなかったりで、なかなか出席できなくても、いつも行事の予定をお知らせして、気にかけて下さっているのが本当にありがたいです。

先日も車いすを押して母と老人会の行事に参加しましたが、行事中も近隣の方がずっと隣に座って声をかけて下さり、帰宅後はすごく楽しかったと喜んでいました。地域の高齢者施設の方も、地域の方に開放的で、ぜひ来てくださいと言ってくださっています。

そんな茶山台へのご恩返しのつもりで、ずっとやってきた音楽で地域に貢献したいと思っています。夢は、お世話になった地域の皆さんへの感謝を込めて、いつか地域で演奏会ができたらと考えています。まずは目の前のできることに取り組んでいきたいと思っています。

学校行事や地域行事にも積極的に参加され、茶山台の子どもたちや茶山台に暮らす人々を温かく見守り、接してきた戸次さん。時に厳しくピアノの指導をしながらも、その時々の子どもたちの状態や状況をまるごと受け止め、一人ひとりに合った指導法を考案しぶつかっていく。その根底には、どんな人でも大らかに受け止める深い愛情を感じます。

そしてそれは、戸次さん自身が、ニュータウン草創期に新しくやってきた人たち同士が互いを受け入れ合い、助け合いながら生活をし、転入生ともすぐに打ち解けて一緒に遊ぶ風土で育つ中で培われてきたものなのかもしれません。

ハンディがあっても、ネガティブな気持ちでピアノに向かっていても、絶対に子どもたちの成長を諦めずに伴走することで、子どもたちは大きく成長し、生きる力が育まれる。戸次さんの実践は、人を育てることの可能性を伝えてくれているような気がしました。


<ライタープロフィール>
中村彩理 Nakamura Sairi
南大阪で生まれ南大阪育ち。長年堺で働き、結婚を機に堺市で暮らし始める。現在は小学生の子育て中。2024年からライターとしての活動を開始。福祉関連の記事を執筆するとともに、noteなどで自身の体験も発信している。

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