団地ライフラボat茶山台代表・池田淳さんと話して、「ふつう」とはなにかを考えた。

文=中村彩理(フリーライター)
皆さんは、「ふつう」とはなんだと思いますか?
日々の暮らしの中で、 人生を大きく左右する「ふつう」ではない局面に立たされている方もいれば、毎日特に問題なく、穏やかに「ふつう」に過ごしているという方もいらっしゃるかと思います。ここでいう「ふつう」とは、ごくありふれた平凡な様子を指す言葉とも言えます。
一方で、生きていればさまざまな常識やあるべき理想像が示される場面も多く、一般論から少しはみ出したことをしてしまうと、「ふつうにしなさい」などと言われてしまうこともあります。この場合の「ふつう」は「一般には」という社会が求める姿を指しています。「ふつう」とは、多くの人が考える理想を強いられることでもあるのかもしれません。
また、ある人の「ふつう」が別の人には「ふつう」ではないこともあるでしょう。そう考えると、私たちが当たり前に使っている「ふつう」とは、実はとても曖昧なものに思えてきます。
茶山台で生まれ育ち、現在も茶山台団地で暮らす池田淳さんも、茶山台団地でふつうに暮らす一人でした。そんな池田さんが2022年に立ち上げたのが、自治型NPO「団地ライフラボat茶山台」です。発足以来、「お節介が輝ける地域に」をスローガンに掲げ、「専属コミュニティワーカーの配置」「担い手の育成」「ソーシャル団地」という3つをテーマに活動してきました。
「一生茶山台」を宣言し、自身のことを「誰よりもふつうの人」と語る池田さんに、一人の住民からNPO代表を務めるに至った経緯や思い、NPOとしての今後のビジョンなどを伺いつつ、池田さんがいう「ふつう」とは何か、インタビューを通じて探りました。
茶山台で育った子ども時代
―――池田さんは生まれも育ちも茶山台ですが、どんな思い出がありますか?
当時は子どもも多くて、とてもにぎわっていました。現在「子ども会」は校区に1つずつになっていますが、当時は各団地・町会ごとにあったほどです。それがとても楽しかった。
思い出深いのは、歳末の夜警の光景です。自治会と子ども会の合同で夜警をしていたのですが、大人たちの目的は酒盛りで。「お前ら行ってこい」と言われて、結局巡回に行くのは子どもたちだけ。見回りをしながら、駐車禁止の場所に車が停まっていた時は、警察を真似してチョークで地面に時刻を書くいたずらをしたこともありました(笑)。
―――進学や就職などの節目でも、ずっと茶山台で暮らしていたのですか?
はい。大学時代は茶山台から京都まで遠距離通学していました。通学に2時間半かかるので、基本的にどこにも寄り道せず、まっすぐ自宅に帰っていました。大学4回生の時はほとんど単位も取得していたので、通学も週に1回くらい。週末にアルバイトをする以外は特にやることもなく、ふらふらしていたんです。
そんな時に、同じ団地に住んでいたソフトボールの監督に、「障害者の作業所でボランティアをしないか?」と誘われました。お世話になっていた監督だったこともあり、引き受けることにしたんですが気がつけばすっかりのめり込んでしまい、結局平日は毎日ボランティアに通っていましたね。その後、監督の紹介で堺市内の福祉施設へ就職しました。現在は社会福祉法人の理事長を務めています。
恩師への思いを胸に続けた、福祉の仕事
―――池田さんは「福祉」にどんな魅力を感じたんですか?
利用者たちと過ごす日々がとにかく面白かったです。その作業所では、自転車のスポークを手踏みするという作業を請け負っていたのですが、よく見ていると、利用者の一人が、誰も教えていない独自の方法で作業しているにもかかわらず、誰よりも早く正確だったんです。僕もその人より早く作業しようと試みましたが、歯が立ちませんでした。
また、作業所でバザーに出店した際には、別のメンバーがずっと店番をさぼってタバコを吸っていて、一向に動く様子がなくて。で、やっと動いたと思ったら、別の人のところに行って、「たばこちょうだい」ってやってる(笑)。そういうのが本当に面白かったんです。
ただ、就職したての頃は正直辛かったですね。24時間勤務で夜勤もありますし、正解のない仕事ですから、戸惑うことも多かったです。
―――それでも福祉の仕事を続けてこられたのはなぜでしょうか。
先述のソフトボールの監督の存在が大きかったですね。ボランティアをしていたときは、本当にいろいろ学ばせてもらっていたのですが、私が就職する前に、監督は不慮の事故で亡くなってしまいました。ですから、仕事について、監督に認めてもらうことは物理的に無理なんですが、それでも認められていないうちは辞められないと思って続けてきました。でも、そうしているうちに、次第に自分の実践が学んだ理論や知識とつながっていく実感が持てるようになってきて、徐々に仕事が面白くなっていきました。
福祉の仕事は、ふつうの延長
―――仕事をする上でどんなことを心がけていますか?
最初は個性豊かなメンバーがただ面白かったのですが、次第に彼らが抱える生きづらさも見えてきました。障害のある人は品行方正で、正しい言葉ばかり投げかけられてきています。たとえば障害特性によって、そもそも相手を思いやることが苦手な人が多いのに、「相手の気持ちを考えて、優しくしましょう」と教えられる。それで余計に苦しくなっているように見えました。
ある日、働いていて他の人とトラブルになってしまう利用者がいました。その人に「人と関わるのはしんどいはずなのに、なんで関わるの?」と聞くと彼は、「友達がいないと寂しい。人のことを嫌いになってはいけないと言われてきたから」と言うんです。私が「僕は嫌いな人おるで。友達もそんなにいないし」と言うと、ものすごくびっくりした顔をしていましたね。
―――それはびっくりするでしょうね(笑)。
みんな「正しいこと」を教わるけど、社会にはいろいろな人がいて、きれいごとや正しいことだけでは成り立っていません。私自身、いろいろな人の影響を受けて生きてきている。ひとつの正しいとされる価値観だけでは、いざ彼らが地域で暮らすことになったときに困ってしまいます。いろんなタイプの人がいていい、ということは意識しているかなと思いますね。
福祉の仕事は、どうしても「やってあげている」という気持ちになってしまいがちですが、私は福祉の支援は「ふつうにやっていること」の延長だと思うんです。
ーーー「ふつうにやっていること」というと?
たとえば障害のある人への支援では、よく「絵を見せながら説明した方がよい」と言われますが、それは障害がない人であっても同じですよね。絵や図を用いて説明した方が分かりやすければ、障害のあるなしにかかわらず、そのように説明したほうがいい。本当に伝えたいと思ったら、熱意を込めますし、方法もすごく考える。
特別なことではなく、どれだけ丁寧にやるかなんです。私はその意味で、この仕事はとても「クリエイティブ」だと思っています。どうすればいいか、考え抜いたことを形にしていく仕事なので。
巻き込まれてNPOを設立
―――子ども会やPTAでも会長を務めてこられたそうですが、地域活動にはどういった経緯で関わるようになったのでしょうか。
PTA会長は、私の小学校時代の同級生がある年の年度末、3月31日の夕方に家まで頼みに来たんです。私が断ると相手の人は困りますし、年度末だから翌日から新年度が始まってしまう、というもう断れない状況だったので引き受けました(笑)。
子ども会の会長も、頼まれたという点で同じです。茶山台団地では子ども会が一時期消滅していたのですが、それを復活させようという話が持ち上がったのです。PTAも子ども会もやれば盛り上がりますし、やはりあった方がいいと思いました。私自身、子どものときの子ども会は本当に楽しかった。それを残したいという思いがあり、少しずつ地域の活動に加わるようになりました。
―――それがNPO立ち上げに至ったのはどうしてだったんですか?
転機はコロナ禍でした。感染防止の観点から、サードプレイスとして機能している「茶山台としょかん」を大阪府住宅供給公社の主催で開館することが難しくなったため、子ども会主催で、「ヂャヤマダイドジョガン」くらいの感じで存在を濁しながら、2時間程度開館していたのです。
そうこうするうちに、「NPO法人 SEIN」の宝楽さんから「自治会NPOをやらないか」と声をかけられて。自治会も役員のなり手が減って停滞しているし、SEINの取り組みだけではこぼれ落ちている課題もまだまだある。新たにNPOを立ち上げ、取り組むことで、団地の持続可能性を高めることができるのではないか、と。
また、ちょうどその頃、団地に住む高齢者の孤独死を住民たちのお節介とネットワークで回避することができた出来事がありました。そうした住民のつながりがまだ残っていたことがうれしかった。「これは残さないといけない」と思い、NPOを立ち上げを決意しました。

―――孤独死を事前に防ぐ……お節介の最たるものですね。
そうですね。かつての団地にはそんな「お節介」が日常的にありました。それは善意で成り立っていたけれど、善意だけに頼るのは難しい社会になってきている。そうしたお節介をあえて有償のサービスにすることで、団地に雇用を生み出し、もう一度お節介の風土を醸成していきたいと考えています。
―――かつてのお節介の文化をあえて事業にしていくと?
はい。ですから、事業のアイデアは「昔の団地」から着想を得ています。かつての団地では、日常的にご近所で声を掛け合ったり、子ども同士を預かり合ったり、カギを預け合ったりしていました。
そうしたお節介をサービスとしたのが、カギ預かりサービス「みまもっちゃる」と、「お片付けサービス」です。カギを預けておくことで、緊急時の対応がしやすくなります。
また、片付けサービスは住民へのアンケートでも要望が多かったので、団地に住む片づけのプロの方に手伝ってもらって実施しています。このように、団地に暮らす人たちの得意を活かして、住民の困りごとを解決していきたいと思っています。
―――得意なことで関われたら、担い手側が地域活動に参加するハードルも下がりますね。
そうですね。すべて昔の団地にはふつうにあったことなので、大したことをやっているという実感はないです。いずれ団地の1階に銭湯をつくって、デイサービスのような機能を持たせられないかと考えています。法律の壁はありますが、少しずつ取り組んでいきたいと思います。
そして、自分がおじいちゃんになったとき、今関わっている子どもたちが私を家まで連れて帰ってくれるような団地にすることが最終目標です。高齢になって足腰が弱ったり、認知症になったりしていても、団地の中でのんびりと過ごすことができる。そして、そんな池田のじいさんを、「おうちこっちやで」と連れて帰ってくれる団地になっていたらいいなと思っています。
(インタビューはここまで)
池田さんの語り口はどこか飄々としていて、「頼まれたらやっちゃう」「先発でやってくれている人がいたからできたこと」「いいことをしてあげないととは思っていない」などと、時に自らを腐しながら話します。
ただ、その様子は、楽しかった子ども会がなくなるのは寂しいから残したい、団地にあったお節介がもう一度見られるように関係を紡ぎたいと、池田さんが大切に思う日常の営みを、大袈裟にではなく、「ふつう」のこととして守っていこうと取り組んでいるようにも感じられます。
障害のある方との関わりにおいても、地域の活動においても、自分も相手も「そのままでいいやん」「いろんな人がおっていいやん」とあるがままを受け入れていく。突き詰めると、池田さんがしていることは、その人がその人のまま存在し、一人ひとりの個性をおもしろいと思って受け入れていくことなのかもしれません。
そして「ふつう」とはつまり、一般的であるということではなく、一人ひとりがその人のままで存在し合える状態のことなのかもしれない。そんなことを思ったインタビューになりました。
あなたはどう思いますか? ぜひ、考えてみてください
<ライタープロフィール>
中村彩理 Nakamura Sairi
南大阪で生まれ南大阪育ち。長年堺で働き、結婚を機に堺市で暮らし始める。現在は小学生の子育て中。2024年からライターとしての活動を開始。福祉関連の記事を執筆するとともに、noteなどで自身の体験も発信している。